プラザ合意を受けて為替の協調介入が行なわれ、急激に円高になったことで日本では円高不況が訪れました。
円高不況の期間は短かったのですが、バブル経済の前に起きた円高不況について述べていきます。
円高不況を生んだプラザ合意の背景
プラザ合意以前のアメリカはレーガノミクスと呼ばれる金融引き締めによる経済政策をとっていましたが、その影響で為替が円安ドル高に進み、1ドルが220円~250円になりました。
この円安ドル高の影響により半導体などの日本のハイテク製品が多量にアメリカに流入し、アメリカの経常赤字は膨らんでいき、元々社会保障費や軍事費などの増加によって膨らんでいた財政赤字と合わせて、双子の赤字を抱え込むことになりました。
その結果アメリカ国内で保護貿易主義が台頭してきて、アメリカ議会ではスーパー301条の適用を検討するなどの不公正な貿易相手国に対して制裁する動きが起き始めていましたし、実際アメリカ国立大気研究センターがスーパーコンピューターを導入際に、既に落札していたNECからのスーパーコンピューターの導入を、アメリカ議会の圧力によってキャンセルされたことがありました。
そのような中で1985年9月に先進5ヶ国の中央銀行総裁や蔵相がニューヨークのプラザホテルに集まって、貿易の不均衡を是正するための処置の検討を行ないプラザ合意がなされました。
プラザ合意が生んだ円高不況とメカニズム
プラザ合意を受けて各国はドル売りの協調介入を行なった結果、プラザ合意がされた1985年9月にドル円で236円であった為替は、1985年12月には202円となり、バブル経済が始まる1986年12月には162円まで円高ドル安になり、プラザ合意がされてからバブル経済になるまでに100以上の円高が進んでしまいました。
この円高が進むことでアメリカ国内で売れる日本商品の数が減っていきましたが、それだけではなくて輸出産業は為替そのものの影響も受けることになり、例えば1985年9月に236万円で売れていた商品が1986年12月には162万円の価格になってしまい、それだけで100万円の損が出てしまうというように、収益を上げても為替の影響で収益が目減りし、為替差損が生じるようになりました。
その結果、この輸出産業を支えていた東京や大阪などにあった小さな部品メーカーの経営が苦しくなって次々に倒産していきましたが、この円高不況を克服するために行なわれた、公定歩合の引き下げによってバブル経済が始まりました。
まとめ
円高ドル安は高級な輸入品が売れていったために、バブル経済の隠れた要因ともいえましたが、例えばトヨタは為替が1円円高になるだけで400億円くらいの為替差損が出てしまうという話しもあり、輸出企業が受ける円高の影響は大きいものがありました。
特に当時の輸出産業は小さな町工場が部品を製造していたので、円高を乗り越える体力がない町工場が多く存在していました。
その後も何度か訪れる円高不況に絶えるため、今では現地で生産する工場が増えてきています。