1986年12月から始まったバブル経済は期間としては日本で3番目に長い好景気となり、株価や地価も過去にないほどの高値をつけていましたが、1991年3月にはそのバブル経済も終わるときが来て崩壊していきました。
ではなぜバブル経済が発生して崩壊していったのか、そのメカニズムについて述べていきます。
日本でバブル経済が発生したメカニズム
1986年1月から日銀は銀行への貸出金利になる公定歩合を年率5%から0.5%ずつ5回に分けて段階的に引き下げていき、最終的に年率2.5%までになりました。
その結果銀行が企業に融資を行なう際につく金利は、短期融資の場合で1985年に5.5%あったものが年々減少し、1989年1月には4.25%まで下がっていました。
そしてその低い金利の影響を受けて銀行は土地を担保にして盛んに企業に融資を行なっていきました。
その結果、企業は設備投資や人材の雇用を盛んに行なっていき、企業の業績が良くなったことによって裕福になった個人が財テク目的で不動産を購入したり株式投資を行なっていったので、不動産価格や株価が急騰していきました。
その一方為替はプラザ合意後から円高ドル安が続き、バブル経済時も150円くらいから120円辺りを推移していて、その結果高価な外国産の自動車やブランド品などが輸入されてきて物価の高騰を抑えていました。
このように不動産価格や株価の高騰に対して物価が上がらなかったことにより、実体経済から大きくかけ離れたバブル経済が発生することになりました。
バブル経済が崩壊したメカニズム
日銀は1989年の5月から公定歩合を5回に分けて段階的に引き上げていき、年率6.0%までになりました。
その一方1990年から不動産融資の伸び率を全体の融資の伸び率以下に抑える不動産融資に関する総量規制が行なわれて、その結果銀行が企業への新しい融資を行ない難くなり、融資を受けられなくなった企業の設備投資が行なわれなくなり、その結果、地価が急激に下落していきました。
銀行は土地を担保にして融資を行なっていたのですが、土地の価格が下落していくことで担保価値が大きく下がっていき、銀行が抱える不良債権が増えていきました。
このようにバブル経済の崩壊が発生したメカニズムは、公定歩合の引き上げと不動産融資に関する総量規制によって企業への融資が行ない難くなったことが原因となっていました。
まとめ
バブル経済の発生も崩壊も日銀の金融政策が引き金を引いていました。
特に公定歩合を引き下げていったときは0.5%毎の引き下げであったのに対して、崩壊の引き金となった公定歩合の引き上げは、0.75%~1%と大幅に引き上げを行なっていったことで大きく土地の価格が下がり、不良債権の処理に苦しむことになりました。