バブル景気のころの経済や為替などの時代背景を知ると、バブル景気がなぜ起きたのかを理解することが出来ます。
特にバブル景気の発端のひとつになるプラザ合意がなぜなされたかの時代背景を知ることは、バブル景気を理解するには重要な要素のひとつになりますので、プラザ合意前のアメリカの時代背景や、プラザ合意後の日本の経済や為替などの時代背景を述べていきます。
プラザ合意前のアメリカの時代背景とプラザ合意後の日本の時代背景
プラザ合意前の日本は、1ドルが220円~250円の円安ドル高であった影響を受けて、自動車や電気製品の輸出が好調となり、ハイテク景気が訪れていました。
その一方アメリカは経常収支の赤字と財政赤字の双子の赤字を抱えていたため、半導体や航空宇宙分野などで貿易摩擦が発生し、不公正な貿易相手国に制裁を実行できるスーパー301条の適用が検討され、スーパーコンピューターなど一部の分野でスーパー301条の発動がなされました。
そのような中で1985年9月にニューヨークのプラザホテルに先進国5ヶ国の蔵相や中央銀行の総裁が集まり、貿易の不均衡を是正するための処置を検討する会議が開かれ、為替レートを調整することで合意しました。
そして、このプラザ合意に則って各国が為替の協調介入を実施して、当時1ドル240円だった為替が2年後には1ドル150円まで円高になりました。
その結果円高によって為替差損が発生して、輸出産業は大きな打撃を受けて円高不況となり、東京や大阪などの町工場が次々と倒産していきました。
この状況から抜け出す為に、日銀は公定歩合を段階的に引き下げて銀行が企業へ融資を行ない易くしましたが、その結果銀行から融資を受けた企業は土地や建物を購入し、土地は下がらないという土地神話も手伝って、土地や建物を投機的に購入しては高く売ることが繰り返されていき、その結果地価が急騰していきました。
そして、山手線の内側の地価でアメリカ全土を買えるほどまでなり、1986年には13000円台だった株価は1989年の大納会では38957.44まで高騰しました。
一方為替の円高傾向はバブル景気の間続いていて、1986年1月には200円だった為替レートは1987年には140~150円台になり、1988年には120~130円台と円高が進んでいき、1989年~1991年の間も122円~160円の間を推移していました。
そして、この円高を受けてメルセデスベンツやBMW3などの高級輸入自動車が東京を中心に売れていき、1990年にはロールスロイスの全生産台数の三分の一以上が日本で売れていました。
まとめ
バブル景気の前にハイテク景気がありましたが、アケリカにとっては自国の商品が売れない時代であったため、日米の貿易摩擦が発生して、その不均衡を是正するために、スーパー301条の発動の検討がなされたり実際に発動されたりしていた時代でした。
そして、プラザ合意によってバブル景気の引き金が引かれていきました。
そのような時代背景の中で訪れたバブル景気は、為替レートが円高ドル安であった結果、高級な外車が都内を走り回る時代でもありました。