バブル経済時の社会の様子

1980年代の後半から1990年代の前半にかけて、日本の土地や建物などの不動産の価格や株価が急騰してバブル経済の時代に入りましたが、この時代の生活の様子はどのようだったのでしょうか?

バブル経済時の社会の様子について述べていきます。

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バブル経済時代の豊かな様子

バブル経済に突入してお金を貸し易くなった銀行からの融資を受けて、土地の価格は下がらないという都市伝説的な土地神話も手伝って、多くの企業が転売目的で土地や建物の購入を盛んに行なっていき、その過程で土地を確保するために強硬な立ち退きを強いる地上げ屋も登場して、社会問題になることもありました。

そして1987年にリゾート法が改正されて、最小で1143億円そして最大で9800億円のリゾート構想が立案され、30地域で合計9兆3753億円という収益を無視したリゾート開発が相次いで行なわれました。

一方日本の土地や建物だけではなく、絵画のオークションで日本人が最高落札者になることが増えていき、1987年には当時の安田海上火災(今の損害保険ジャパン日本興亜)がゴッホの絵画を約58億円で落札してもいました。

そして、円高ドル安の影響もあって日本企業による海外企業などの買収が増え、1989年にはアメリカのロックフェラーセンターを三菱地所が約2000億円で購入しましたし、幾つかの日本企業がF1チームを次々と買収したりもしました。

一方安く輸入された外車が東京を中心に普及していき、メルセデスベンツやBMW3が都内を走り回る光景が頻繁に見受けられましたし、1990年にはロールスロイスの全生産台数の三分の一以上が日本で売れていました。

就職活動の様子では、企業が内定者を海外や国内旅行に連れ出して他社との接触をさせないように囲い込みを行なう一方、給与が安いということで公務員の人気が低くなっていた時代でもありました。

当時流行ったテレビとしては、東京ラブストーリーを代表にしたトレンディドラマが全盛となり、多くのヒット曲がトレンディドラマから生まれていきました。

一方当時の若い女性から生まれた言葉で、飲み会などの帰りに家まで送ってくれるだけのアッシーくんや食事を奢ってくれるだけのメッシーくんという呼称や、プレゼントを戴くだけの貢ぐくんや本命ではないけれどとりあえず付き合っているキープくんという呼称も生まれていました。

そして、バブル経済の様子を一番現していたともいえるジュリアナ東京が誕生したのは、バブル経済が崩壊する直前の1991年5月15日でした。

ジュリアナ東京はいわゆるワンレンボディコンの女性が複数お立ち台に上がり、ジュリ扇と呼ばれる扇子を振って踊るダンスホールで、1994年8月31日まで営業を行なっていました。

まとめ

バブル経済当時の様子は、日本の土地や建物だけではなく絵画や海外の建物を買収したりしていましたし、贅沢なリゾ-トが各地に生まれてもいました。

そして夜遅くまで賑やかだった街や当時の人達の豊かな様子は、バブル経済が崩壊に向ってからもしばらくは続き、首都圏での平均年収のピークは1997年でした。

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