日本のバブルにプラザ合意が果たした役割とは

プラザ合意が切欠となりバブル景気が起こりましたが、実際日本のバブルにプラザ合意はどのような役割を果たしたのでしょうか?

プラザ合意前とプラザ合意後のアメリカや日本の状況と合わせて述べていきます。

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プラザ合意前の日本とアメリカの状況

1983年から1985年に行なわれたプラザ合意がなされるまでの間、1ドルが220円~250円の円安ドル高の影響で自動車や電気製品などの輸出が好調となり、日本はハイテク景気が訪れていました。

しかし、社会保障費や軍事費などの支出の増加によって財政赤字を抱えていたアメリカは、逆に貿易赤字が膨らんで経常赤字と財政赤字の双子の赤字を抱えてしまっていて、半導体や航空宇宙分野などで日米の貿易摩擦が発生していました。

当時のアメリカ国内では対日貿易に対する不満が高まり、保護貿易主義が台頭してきて、民間団体によるアメリカ議会の議員に圧力をかけるロビー活動も盛んに行なわれるようになりました。

そこで不公正な貿易相手国に制裁することが出来るスーパー301条の適用が検討され、実際アメリカの国立大気研究センターによるスーパーコンピューターの導入に関して、NECが落札を行ない納入する予定でしたが、米議会の圧力によってスーパーコンピューターの導入がキャンセルされました。

そのような中、1985年9月にニューヨークのプラザホテルに、先進5ヶ国の中央銀行総裁や蔵相が集まってプラザ合意がなされました。

プラザ合意後の日本の状況と果たした役割

プラザ合意後各国は為替の協調介入を行ない、その結果当時1ドル240円だった為替が2年後には1ドル150円まで円高になり、日本の輸出産業は大きな打撃を受けて円高不況が発生し、東京や大阪などの町工場が次々と倒産していきました。

そこで日本では1986年5月から1987年にかけて0.5%ずつ5回に分けて公定歩合の引き下げを行ない、最終的に公定歩合は年率2.5%になり、その結果企業は安い金利で銀行から融資を受け、土地の購入や設備投資を行なっていきました。

そして、設備投資を行なっていった結果雇用不足が発生してきて、多量の雇用が生み出されてきました。

賃金も上昇して企業も個人も裕福になり、土地の価格は下がらないという土地神話も手伝って財テクがブームになり、投機的に土地や株式の購入がなされて急騰していきました。

その結果土地は山手線の内側の価格でアメリカ全土が買えるまでになり、13000円ほどであった株価は1989年の大納会では38957.44円まで上がりました。

しかし、その一方為替は円高ドル安の傾向が続いていて、バブルの期間で120円ほどまで円安が進行していき、高級な輸入品が多量に日本国内で販売されて、高級な外国産の自動車やブランド品などが売れていきましたが、その影響もあって物価そのものは上がりませんでした。

このようにプラザ合意は、為替をバブル期間中も続く円高ドル安に導き、その結果高級輸入品が国内で売れていき、物価の上昇も抑えられる結果を生みました。

まとめ

プラザホテルでなされた合意は貿易の不均衡を是正するための処理であり、その結果行なわれたことが為替への協調介入ですから、プラザ合意が日本に果たした役割はバブル景気中も続いた円高ドル安であり、その結果増大した高級自動車やブランド品の輸入にあり、そのことにより上がらなかった物価にあります。

一方バブル景気はプラザ合意が切欠になりましたが、プラザ合意が導いたというよりも、日銀が公定歩合を引き下げたことが大きく影響をしていました。

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